ほんとにユニクロが好きなのか?

UNIQLO CALENDAR

これを見ていて、思う。こんなセカイ間違ってると。でも、何に対して間違ってる?と理路整然、問われても、明確な答えはいまだ出せないだろう。ユニクロのセカイには、「現実味」、より強くいえば、「俺、私、わたし、僕、ぼく味」がない、いわば、そこに「わたし」がいる感じがしないから、と、とりあえずの説明はできる。でもどうだろう?こう問われては?
でも、ユニクロのその無理しない「そこそこの感じ」がいんじゃない?
Why not?それはそれ、素敵じゃないか、中庸、温泉、なあなあ。きみはきみ。好きにすればいい。でも、「UNIQLO CALENDAR」はたしかにポップでスマートでカワイイけど、おれにはやっぱり模型、つまり、造りモノみたいだし、なんか痛みがなさそうで、生きてる感じもしなそうだから、さようなら。いろいろ。
でも、なぜこんなものをわざわざたらたら書いているのかと自答すると、きっとそんなもん、理由はおもに2つ。(1)まだどこかで期待している、のと(2)くやしくもあり残念でもありさびしい、のだろう。
「ぼく」的で、ロマン主義的な内面吐露吐露「反省」文は、やたらと真実味とナルシシズムの雰囲気をおびてくるから、もうやめよう、粋じゃない。より、比喩で塗り固め、事象で彩る。
一方では知ってる。「ほんと」って問うこと自体がバカなんだろ?

呉智恩(ji-eun)
佐々木敦のブログで勧められてた。なにか身体がシナジー。こういった声が、コブクロ的な「うた」、ましてやオリエンタリズムの未開性に回収されないで、楽器としてとらえられてほしい。もはや演奏のうまい/へたとか、作家性のある/ないとか、良くも悪くも、そういった枠組みの中に彼女のような歌はいないのだから。
でも、こういったアウラなき歌い手さんが、日常や素朴さの名のもとに切り捨てられたら、それはそれでうれしい。というのも、ただ自分の眼が節穴なだけで、現代社会いまこのときの日常や素朴さは、実際には、こんなにもかっこいいのだから。変な話だけど、いま思った。現在この国で、もっとも急速に腐っていってるのは、剥き出しの「ゾーエー」的な部分だと思っている、この自分の分析が間違っていたならば、どんなにうれしいだろうと。そこから発展して、すぐバッドエンドを描きたがる、悲観主義的な社会学者や経済学者などはこの矛盾をどういう風におもっている、いたのだろう。デリダの言葉にはつねに、自分の理論は間違っている(かもしれない)、という余白があるような気が直感的にする。逆に、アドルノの解く障子の世界には、決して穴は開かない。たとえそこで描かれる世界のイメージがぺらぺらの障子ようであっても、それを語る本人が天守閣にふんぞりかえっているから。
きっと鍵は「歴史性」にあるんだろう。ということは、「スーパーフラット」ってやっぱり「クール」だな。