Bodyがお留守だぜ

潜水服は蝶のようなため息をつくだろうか。
柄にもなくアートプロジェクトのようなものに顔を出している。本当に淋しくなる。アートを通して、コミュニケーションを促進するって?それもうコミュニケーションじゃないだろ。アートを通さなきゃ、なにか模型された「環境」がなきゃ、コミュニケーションができないようなら、それコミュニティケーション(コミケーションと言い換えてもいい)だろ。いくら対面を謳ったって、結局mixiと大差ないだろ。甘えるな。コミュ二ケーションぐらい、てめえひとりでやれよ。油汗と冷汗でてんぷらあげてみろよ、れんこんからでもいいから。でなきゃ生きてる実感なんてないぜ。万引きをする若者の多くは「ゲーム感覚」なんだという。ゲーム感覚で身体的に「犯罪」をしてる。そいつらはきっと、ただ明日がみえない明日に飢えてる。日常が飽和してるから。
なぜそんな嬉々と、意気揚々と、アートを通してコミュニケーションの復興を!、なんて、叫べる?おまえの目標は、アートを通さないコミュニケーションの復興、にあるんじゃないのか?だとすれば、おまえの仕事がある限り、おまえの活動場所がある限り、おまえの試みは失敗してるんだぜ?おまえが本当に真剣なら、社会にとって最もいらないのはおまえの仕事だって分かってるのか?なら、アートプロジェクトをへいへいのんのんとやり続けられていることがくやしくないのか?悲しくないのか?みじめじゃないのか?
ほんとに欠乏が欠乏してる。消費だけじゃなく、政治さえも、ニッチに欲望がでっちあげられている。
社会批判は必ず自己否定を伴わなくては鳴らない。左翼の夢が叶えば右翼になる。下部構造の夢が叶えば上部構造になる。批判はつねに逆走であり、「はんたいのさんせい」なのだ。「いま自分の中で岡山熱がきてるんです」って?、岡山がきてるってなに?HISの社員さんですか?岡山が抱えている問題は「いまきてる/きてない」で括れるものなのですか?結局ただの「岡山の問題解決ブーム(笑)」がきてるだけじゃないんですか?ブームって一過性が約束されてる。遠征されたアートによる町おこしなんて、プチブルかアーティストくずれの自己満足にしか見えない。その町おこしの対象となっている場所は最終的に自分になんの害も与えないから。アートを通して街おこし。きれいごとを言うためにはなにかの「イズム」がいる。イデオロギーが集団に関わるのであれば、イズムは個人に関わる。なにかイズムをもてよ。オナニズム以外の。「ほんとう」のことをやりたければ。
もしそれでも、アートに政治的な可能性があるとすれば、それは「目覚め」させる能力にある。こうテーゼ化してもいい。アートの力はジャックの、ゲリラの、テロの力、ショックだ。社会や歴史、慣習のヴェールによって、抑圧され(ときには視覚的に)無意識化されている構造を、身体(!)に刻み込むこと。こう言い換えてもいい。現代において、アートがもしまだ「アート」として成立するならば、それはアートが「痛み」足りえるときだ、と。アートは「やさしく」ない。
とりあえず大事なことは以下のことだ。アートも政治もなにものも決して、会話とか、友達選びとか(ゾーエー的な)「生」の領域に踏み込んではならない。そこは、「自(分)治圏」だから。「内生干渉」をする権利はなにものも持っていない。だから、アートによって謳われた「交流」なんていらない。福利厚生なんていらない。普段なにしてるの?質問したら、ベルリンでどこぞの日本人ワーホリさんがいってたっけ、「ただ生きてるだけ」、すげー痺れたっけ。
アガンベンデリダが読みたくなってきた。