きょうの出会いは必然だった

必然性の度合いが低ければ低いほど、必然めいたものを感じる。というのも、必然性の度合いが低いということは、まぎれもなく、偶然、ということなのだけど、とてつもなく偶然だからこそ、それが起こりえたとき、必然になる。まったく起こる可能性が少なかったにもかかわらず起こったから。
たとえば、一期一会的な出会いについて。だれかあるひとりに出会う。誰でもいい、たとえば友達の友達。そして楽しく会話する。その可能性は何パーセントなんだろうかと思う。コペルニクスもびっくりの天文学的な数字なのかもしれない。というか、ある人はいうだろう、すべての出会いは奇跡だ、なんて。美しい。でも、ときとして、きれいなことには実感が伴わないことがある。たとえば、こんな表現。おなサー、おなクラ、じもティー。すべて、なにかの輪(私はそれを「環境」という)に結びついた「ともだち」だ。もちろん、その人が、そのサークル、クラス、地元で過ごしたのは紛れもない天文学的偶然だ。でも、どうだろう、そこで誰かと「ともだち」になるのは?、私は「ともだち」なんかいなかった、いじめられてばっかりだった、という人にはごめんなさいと言うしかないが、同じ輪の中でだれかと「ともだち」になることは、始めから約束されているのではないだろうか?
ここで、気づく。自分は決して必然/偶然の関係などについて語っていなかったことに。むしろ心の焦点はメリット/デメリット的なことに合わさっていた。一期一会的なことはいってしまえば無駄かもしれない。もう今後2度と合わないかもしれないし、もう2度合わないかもしれないならば、その人と一緒になにかをすること、たとえば話したり、お酒を飲んだり、にさほど意味はないかもしれない。にもかかわらず、それをする。その「表層」の理由のなさに、なにか必然めいたものを感じる。
もちろん、以下のような逆の可能性はある。むしろ、もう今後2度と合わないからこそ、一緒になにかをするのだ、なぜならば、もう2度と合わないのだから、というトートロジカルな論理で。つまり、もう2度と合わないのだから、そこでなにをしようとそれこそデメリットがなく「楽」だからという、無責任な理由から、偶然的な一期一会は起こり、必然化する。
この二つのテーゼ、アンチテーゼからは、どのようなジンテーゼが生みだせるだろう?結局、そんなことを考えても、その答えは心の領域の問題だから意味がないという、「表層の戯れ」的な結論は、「Syn」(ふたつが合わさったもの)ではなく、ただこのテーゼの組み合わせからの逃避に過ぎない。
個人的な関心はやっぱりいつも「環境」、ときとしてそれを「家」ともよぶ、のある/なしにある。またここでひとつの問いが。すべてのことから逃げ出したやつはいったいどこに「いる」のだろう?
あまりよくない傾向にあるな。より事象にぶつからなければいけない。分析ではなく批評をしよう。