表現者が好き

花*花がこんなことを歌っていたっけ。ああー、よかったなあ。とくにこの数日は。理由は、出会いに結びついている。この出会いをつくりあげてくれた人々にはとくに感謝している。というかむしろ出会いはきっと最近ハマってる、オクタビオ・パス(Octavio Paz)のいう、「詩」のようなものだから、出会いにおいて、その創出において、関係のないものなどいないのだ。

磁器を帯びたものであり、多くの相対する力の密かな遭遇点である詩によって、われわれは詩的体験に近づくことができる。詩は、人間の気質、性向、知性といったものには関わりなく、あらゆる人びとに開かれた可能性である。実に、詩とは可能性であり、読者あるいは聞き手との接触によってはじめて活性化する何ものか以外ではない。あらゆる詩には、それ無しでは決してポエジーとはなりえない、共通の特徴―参加―がある。

弓と竪琴

弓と竪琴

31頁

スペイン語ができないために原文で読むことができないのが残念だが、まず、パスのこうした記述の在り方をなんと形容したらいいだろう。同じ「ポエジーと詩」の章にあるポエジーの定義の箇所により顕著に出ているが、彼の文章は「散文」の形式をとっているが、全く意味伝達的な体裁を欠いている。ともすれば、決断主義のようにも見えるが、決断主義の言説にぷんぷん漂う、なになにであるからそうなのであるのである、といった断定の押し売り感はない。だから、彼のイメージの論理的つながりもまた「詩的」と形容しうるものなのだろう。しかし、なぜパスのこの『月と竪琴』(ちくま学芸文庫)は絶版なのか?たいていそもそも偏食な理論好きが、本質主義だといわれようと、でもなんとか客観的に、巷公共的に考えた末の「読まなければならない本」のひとつに、ゼッタイにこの本は入ると思うのだが。
こんなオクタビオ・パスに関する脱線した感想はおいておいて、当初の予定としては、出会い、パスのいう「参加」としての「詩」から、Beuysのいう"Sozialen Plastik(社会彫刻)"、"Jeder Mensch ist ein Künstler(どんな人も芸術家である)"というテーゼを手がかりに、なぜalle Leute(すべてのひとはみな)ではなく、Jeder Mensch(どんな人も)なのか?という問題を、アートプロジェクトの欠点、演劇をやることの可能性、総じて、他者性の問題系と絡めて、考えてみたいと思っていたけれども、あきらかに長くなりまた寝不足になるのでこれにて。
とにかく、「むかつく」のは、なにやらアート好きの多くの人が崇拝する「アーティスト」とかいうやつを、ひとつの(主に職業の)ジャンルとしてのみイメージしているな、と感じるときだ。「アーティスト」という言葉に纏わりつく、アウラ的なシニフィエ(記号内容)はべつにそのままでいい、というか、"jeder Mensch ist ein Künstler"のKünstlerの語を活かすために、そのままがいい。でも、だからこそ、「アーティスト」は職業名、つまり「芸術家」としてだけではなく、性格、より日本語の語感を強調すれば、キャラクターとして捉えられなければならない。
んー、日本語で文章をタイプしつつ、ドイツ語でひとり脳内校正しながら、ブログを書くとどうしても長くなる。ドイツ語は構造的に細かいからなあ。ほら、また!「何の」構造的に?構造的にといってもいったい「何の」?とドイツ語脳がいちいちつっこんでくる、はい、文法の構造的にです。