これでいいのだ?

池袋、東京芸術劇場の芸術監督に就任した野田秀樹がめざす「実名」の発信、自分の言葉で言い換えれば、場所、Hot placeに基づいた発信には、自分の今後の方向性ともあいまってひどく共感している。というのも、場所に基づいた発信、ここでは劇場、は、(1)地域への還元が可能であるし、(2)なにより、狭義の記号消費に因らない作品受容の在り方を可能にするからだ。つまり、『東京ウォーカー』や『Real Tokyo』、お気に入りのブログなどで紹介してたからではなく、あそこの場所はいつもおもしろいことをやってるからいく、という、なにか「いま熱い」の一過性の匿名性で一括りにされないような、継続性の、実名性のある場所の自己(!)選択であり、享受。頭の片隅にはベルリンの様相がある。(3)また、このことは、年々あふれかえるインターネットの情報を、現実問題として、ただ受動的にチェックしつづける、振り落とされないようにへばりつけつづけるしかない現状の打開策にもつながる。
とはいえ、どうだったろう。今日みた『ダイバー』に関しては。

ザ・ダイバー

この『ダイバー』のキモは、「能」の導入にあるのだろうが、そのことがまず残念。きっと文字通り「あばれまわっていた」小劇場時代の野田秀樹は知らない。でも、『走れメルス』を、ケッという声が聞こえてきそうだ、はじめて観たときに感じたのは、革新、の二文字だった。が、能の様式の再解釈、再評価という試みからはなにか革新よりも、伝統の香りがする。つまり、なぜいま「能」なのか?
次に、その「能」の試み自体がコケている。意図するとしないとは分からないが、舞台には「アウラ」がない。芸劇小ホールに、踏み台ほどの高さでつくられた舞台は観客との距離がちかく、セットもシンプル、ミニマムというより、どこかちゃちな感じがする。この「アウラ」のなさが「能」の儀式的な様式性とあまりにも噛み合わない。お遊び感さえする。なにより、役者の身体が能の形を全く会得、再現、表現、できていない。なんだか学芸会をみているよう。まあそれはそれで、芸事を見直すいい機会になっていいかもしれないのだが。そして、テーマが「歳をとっている」。とは、いまそのテーマを問う必要性、政治性を感じない。なぜ、いま!多重人格とアイデンティティの問題を描くのか?なぜいま!権力と死刑の問題を描くのか?正確には、なぜいま権力が「自己同一性」や「死刑」として表象されなければならないのか?自分にはまったく分からない。
たしかに、たとえば扇子が、ピザにもバットにもケータイにもなる、変幻自在に役割を変える小道具使いはおもしろい。でも、それはもう『罪と罰』でもみたし。
正直、野田秀樹が「能」をする冒頭のシーンで、これはコケた、と瞬間的に感じた。でも、自分は劇場にとどまった、自戒の念もこめて、とどまってしまった。そのとき頭によぎったのは、ストリート・パフォーマンスのこと。もし、この『ザ・ダイバー』がストリートだったら、自分は足を止めずにすぐさま通りすぎるだろう。にもかかわらず、劇場に最後まで、つまらなくムカつきさえおぼえていた、にもかかわらず、とどまり続けていたのは、「劇場のアウラ」の問題などではなく、7000円も払ったから、という貧乏人的、小市民的悪癖からだ。経営の問題があることは想像がつく、でもこの劇場における前払い制度は、ストリートと比べると、やはりどうしてもアンフェアな気がする。せめて、Radioheadのように、まあ彼らの試みは音質の問題もあり成功したとはいえないが、カンパ制を実験的にでも導入してほしい。これは、個人的にうれしい、「信頼」と「ある意味で無階級社会」にもつながるから。