はっとしたんか

路上を歩いていると、前方お腹のあたり中空に羽虫コガネ系、飛んでいる。おれは人間だから、なんのことはなく奴シカトして歩き続ける。と、もちろん虫、俺にあたって。普通、車でもいい、振り子でもいい、ビリヤードの球でもいい、ふたつの運動体が衝突すれば反発し合う。が、奴はバチやボコやゴアとはならない。むしろ、ひたっ、むしろ、すっ、と奴おれの腹にくっつき素知らぬ顔。おれ、感じたのである。
こいつの重力は軽い、と。
このとき片隅にNietzsche。「わたしがわたしの悪魔を見たとき、悪魔はきまじめで、徹底的で、深く、荘重であった。それは重力の魔であった。――かれによって一切の物は落ちる。怒っても殺せないときは、笑えば殺すことができる。さあ、この重力の魔を笑殺しようではないか!/わたしは歩くことをおぼえた。それからわたしはひとりで歩く。わたしは飛ぶことをおぼえた。それからは、わたしは飛ぶため、ひとから突いてもらいたくはなかった。/いまはこの身は軽い。いまはわたしは飛ぶ。いまはわたしはわたしの下に見る。いまはひとりの神が、わたしとなって踊る思いだ(63)」。ああ、そうだ、虫だ、おれは虫になりたかったんだ、なんて思っていると、奴、音もなくまたひらりと虚空。

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)