息苦しいなあ、いろいろと

自分のとりあえず「論考」、結局は批評の立ち位置について。自分にとって、自分にとって、自分にとって、三回繰り返したからもういいだろう、つまり、他の人がどう考えようと批判はしようとも否定はしないから少なくとも私にとっては、哲学や思想など概念や論理で物事を論じる学問の一分野は、それについて正しく語るものではなく、そこから自分にはなかった新たな考えるポイント、つまり、観点ならぬ、視覚の比喩は使いたくないので、考点を得るものだと、思っているのだ、ということが今日のいわば闘争を通して改めて分かった。
つまり、ヴァルター・ベンヤミンは映画について話している箇所で「視覚的無意識」というキーワード、もはや概念とはいうまい、を出した。できればこのベンヤミンが論じた、意図、意味していた「視覚的無意識」に寄り添おうというベクトルは保っていようというのが学問的な礼儀であろうし、ベンヤミンという名を出す以上、こうした「視覚的無意識」というワードに対して、ある意味「間違った」使い方は避けよう、と心がけようとはするけれども、最終的に、ぶっちゃけ、ベンヤミンがどう言ったか、というベンヤミンの「正解」を目指すことは自分にはどうでもいい。むしろ、自分が思想や哲学など小難しいものに感じているおもしろさは「誤読」に、へっ?映画は視覚的無意識?なにそれ?、というショックに似た興味本位の驚きから生まれる自分の思考の新たなる可能性、より具体的には、そのベンヤミンの映画と視覚的無意識という自分の認識の外からきた言葉と言葉の組み合わせの、いわば思考の驚きを契機に、そのワードを用いて、自分の頭で!新たにその対象を考えるきっかけを生み出されることにある。ここでニーチェの読書批判を引用すると効果的なのだろうけど、そもそもなぜニーチェを引用しないと効果的にならないのか?という疑問を自分のブログでまでなおざりにして、「ハイカルチャー」を意識的であれ無意識的であれ行為的に擁護してしまうのも癪なので、今回はやめよう。これはハビトゥスの問題圏なのかな?知らないけど。
だから、むしろ自分の「思想」読解の最終到達点は、なんらかの思想家から仕入れた思想用語、用法をその思想の情報源をリークしなくてもいいぐらい自家薬籠中化して、その思想家が言ったことと比べて「おもしろさ」のクオリティを落とさずに、その思想用語、変換ミスも採用して、思想擁護なしで、その思想を思考として盗み、用いることだ。
でもそうすると、おまえ語り、で「研究」とはみなされないんだろうけども。
まあだからそんな自分の立ち位置、ベクトルは、「●●研究者」、それが学問、研究である以上、●●という特定のジャンル内での専門性というのは必要であると思う、というにはおこがましいし、そもそも向いてない。だからもう自分のやっていることを「研究」と口にするのはやめよう。