そもそも輪廻は再誕の繰り返しだろう

身の周りの右傾化について。このごろ、身の周りの右傾化、つまり身の回りの風潮が、日本は日本だから好きや、日本人は日本人だから好き、といったような、土地や血、民族に基づいた自国への盲目的な愛が強くなってきている、最近の例としてだすのが、映画『仏陀再誕』、映画『20世紀少年』とドラマ『不毛地帯』なのだが、とりわけ『仏陀再誕』というタイトルは変だ。
というのも、自分には、仏陀と「再誕」という言葉のイメージの組み合わせがどうも結びつかない。そもそも仏陀って死んだんだっけ?ということも知らない仏教に関する知識のため、仏陀の「再誕」と言われてもピンとこないのは当たり前なのだが、そこは神様仏様ウィキペディア様ということで検索してみると、たしかに仏陀は80歳で「入滅」していた。だが、それでもまだ「仏陀再誕」という言葉、そこにみえる死と再生の物語、その再誕が幸福を実現するかのようなイメージは、どうも腑に落ちない。
というのも、仏陀は入滅後、たしか「涅槃」して悟りを開いてノンノンとしているはずだから、どうもその仏陀がわざわざ再誕して救済するというのはちと合わない。むしろ、自分の脳内ソフトに「再誕 宗教」の語で検索をかけた際に引っかかるのは、復活譚、救済思想のあるキリスト教の方であり、なぜいまこの21世紀に神さまが誕生ではなく「再誕」するのか?ということに関しても「神は死ん」でいたからだ、と連想の物語をはたらかせればすごくよく分かる。といってここで、『仏陀再誕』観は、「日本」ではなく、むしろ「西洋」にもとづいているのではないか?と問い、そのナショナリズム、つまり排他的な国家愛の高揚に疑問符を投げかけてみたところで、こうした、きみの日本に対する盲目的な愛はヨーロッパからの逆輸入だよ、といったある種の「正しさ」に寄りかからざるをえない批判は狭義の、ポスト●●、の名の一言で簡単に跳ねっかえされてしまうだろう。つまり、じゃあなに「ザ・日本」なんてものが一枚岩的に存在していると思っている?という一言で。
ポストモダン」的な物事に対する関わり方はおもしろい。でも「ポストモダン」が「ポスト」の後、そして先延ばし、宙吊り、郵便でしかない以上、「モダン」の問題圏はそのポストの名の下につねに残り続けている。そうした「モダン」の問題圏に目を向けず、ポストモダン的言説と態度を過剰にとり続けるのは、「正しさ」、言説的公平さに基づいているというよりも、むしろ政治性からのただの逃げだろう。
萌え系が好きな人を萌えさす、萌えのメカニズムはいまかなり解明されているはずだ、というか萌え自体がそもそもプログラミングだったかもしれない、声優のことはよく知らないし、最近の「データベース消費」的なマンガの受容も追ってない、でもこの『仏陀再誕』の豪華キャストと豪華「イメージ」は明らかにヤバい。