他者―多謝のない振る舞いを見ると心が痛んでふしふしくるしい

マスクをすること、他者性について。空気は他者の会合だ、そのため、空気清浄機などで、ここでコンテクストの空気をよまない、よめない自分のmac bookは「空気星条旗」という素敵な変換ミスをだした、フロイトは「失錯行為」、つまり言い間違いに個人の無意識を読み込んだけど、「パソコン」という呼ばれている、personalで個人的なものだけどcom-puterで集団的なものでもあるこの白い機械が生み出す「失錯行為」には集団的無意識が織り込まれているといえるだろうか?、話もどって、空気を正常化することは、他者のホロコーストだというほどのイズムをもっているため、菌を感染させることを防ぐマスクは場合によっては使用とも、菌が感染することを防ぐためのマスクはしない、そんなベルリンの壁めいたものを呼吸、つまりパスによれば思考をする口もとにするぐらいだったら、その菌に感染した方がましだと思っていたら、まあこんな自己意志中心的な行為ができるのは自分で「例外状態」をつくりだせる状況下にあるからだなといま実感したが、さいきんの多忙小眠と相まって咽が痛んできた。ただのタバコの吸い過ぎだとうれしい。というのも、寝込むのはいいけど、高熱がでると考えられないし、本も読めない映画もみられないから、全くつまらない。
コチコチになった肩こりは決して自分の力ひとりでは治せないように、というのも自分で自分の肩はもめない、コチコチになった頭こり、つまり考え方、より広く思考という運動の偏向化も決して自分ひとりでは治せない、治らないのではないだろうかと、このごろの経験を通して感じる。つまり、だれかとの議論ないし意見のラリーは自分の中にきわめて新しい関心や観点を生むのではないだろうか、と。またこうした自己の関心の中へと入ってくる他者の関心を自分の栄養とするかしないかは、ここで栄養という食のアナロジーを採用したように、そこで食わず嫌いをするか否かに、つまり、くだらない、と自分勝手な価値判断のみを重視し認定して話を半分殺すのかどうかに懸かっているのだろう。
他者というのが、他人の肉体だと思っている。そのこと自体が絶望的な「間違い」だ。
窓を通して、隣の家から深い咳が何度も聞こえる。その人が一人暮らしでありそうなことも知っている。つらそうだな、つらいだろうなと感じながらも、大丈夫ですか?なにか必要なものはありますか?の一言でも声をかけてあげられないのは、あげたいなと思ってもそれをスムーズにいかせないようなストッパーめいたものが自分の中にあるのはなぜだろう?常識の絡まりとして「正常」というものが設定されるとするなら、今のその設定はやっぱりひどく冷たいものなのではないだろうか?
「クール」ないし「クールさ」の構造についてもっと集中的に考えよう。