私の人生は私のものだから私の勝手だなんて思うのは超傲慢だ

どうしてもがまんできないこと、歴史について。これまでの歴史は強者の歴史、つまり強者によって語られてきた強者のための歴史であったという。だからこれからは逆に歴史は弱者の歴史になる、わけがない。というのも弱者はそもそも歴史をつくらない、歴史というシステム自体が強者が作り出したものだからだ。だから、強者の歴史はこれから弱者に目をむけようとも、それを語る者は強者に措いてはあり得ない。たとえ出自が弱者であろうとも、歴史という巨大なシステムを語ることで構築する以上その弱者はすぐさま強者になる。
これまでは意味論的、強者/弱者の違いについて考えていたがもちろん社会的な強者/弱者、より具体的にいえば、資本的、文化資産的な強者/弱者の違いも存在する、いわば身体化された階級というカテゴライズが。ここで弱者に認定されているものは多くの場合、決して歴史の構築に参加できない、というのも、そいつはそもそも弱者に生まれついたからである。余計な美辞麗句めいた同情するだけで金もくれないナルシスティックな論理はいらない。弱者は歴史を構築できない、というのも歴史は強者のものであるからである。Paul E. Willisの『ハマータウンの野郎ども』やEdward Wadie Saidの『オリエンタリズム』、Michel Foucaultなどの著作内で展開される権力批判は弱者への眼差しで、愛で、あふれているかもしれないが、それは彼が弱者であることを意味しない、歴史について語る、語りえる者、弱者について語る、語りえる者、そいつはいつも強者だ。逆に弱者として現実に存在している以上、その者は歴史を語る権利をもたない。

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム下 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム下 (平凡社ライブラリー)

言葉と物―人文科学の考古学

言葉と物―人文科学の考古学

そして、ここからは、夏目漱石の『私の個人主義』から源をえている私の個人主義に配慮することはせず、つまり人には人の生き方があるからおまえが兎や角いうことはないしそれはその相手の生活、むしろ「存在」そのものに敬意を払っていないという意味で失礼でもあるということ等に目配りせず、一言に他者性の問題は眼中に入れずに、ただ自分のイズムをぶちまけるならば、強者には、望むと望まざるとに関わらず強者として現存在してしまったものは、強者として生きる、強者として生きるしかない責任がある。強者に課せられる使命、運命にも似た権利、それは「例外状態」を行使する権利であり、言い換えれば、主権者として生を謳歌する権利だ。そうした歴史のつらなりの中で与えられた「生という権利」をただ、●●(●●には各々の固有名詞が入る)の人生、としてのみ捉え生を謳歌しないで自分勝手に過ごす、存在しない明日に甘え今日しかない今日を疎かにする、自分にはこんなことをなぜ易々といえてしまうのかがわからない、初対面は苦手だからだんだんとだなんて、初対面→次の機会とどうしてこんな寧々と純粋に明日というものがくると信じられるのか。明日などないぞ。後悔もノスタルジーも未来からやってくる。
お前の生活がお前のものだなんて大きな「間違い」だし、生きないのはおそろしく贅沢な行為だ。