毀れるまで飲みたいなと思うときの壊したいものとはなんだろう

極私的なこと、ベルリンから帰国直後ずっと抱いていたあの気持ちについて。なにやらここ数日とても「退屈」な気持ちが続いている。だがここでなにが退屈、なにに対して退屈かと問われても自分の心はその退屈の対象をもたない、なんとなく退屈(Es ist einem langweilig)、という退屈のように思う。こうした対象をもたない退屈は、「退屈」という現象を三つに分けて考えたハイデッガーというドイツの哲学者にいわせれば最も「やばい」気持ちであるのだろうが、自分はここでこうして哲学の言説を引くことで自分の退屈さを高尚にし、フェティッシュでナルシスティッシュに自己否認を通して悲劇の王子様的な自己耽溺にはもっていきたくないので、この退屈さをまた次のStrebungに向けた新たな可能性と意志しよう。つまり、自分はいまGefährlichkeit、なんらかの危険性から派生するStrebung、新たな躍動を欲するいい機会の過渡期にいるのだと。
だが、あからさまにいってしまえば、そうした自分の意志のみで生み出すようなStrebungはつねに、すでに試みているしまた日頃から生み出しているのであって、そうした行為に心が疲れたから何らかの他者、環境に対する退屈めいたいまの気持ちがあるだが、こうした気持ちないし論理展開はまたひとつの「転移」という甘えに過ぎないと捉え返し、意志の領域に回帰させよう。
だから甘えるな、「家」という観念につながるようなすべての現象は燃やし尽くして灰にしろ。抑圧したものはいつか回帰するだろう。だがどうせ回帰するならば偽装した鋼鉄の意志の力で抑圧し続け、死の欲動としてしか回帰しない澱となるまでヤキツクソウ。おそらくドゥルーズというフランスの哲学者のように、自らの意志で死を造りつづける、荒野の上に荒野を生む、そうしたLebenもまたある。
要は、儚さを知りつつも、もっと強くなればいいのだ。