間蛙

雑記。「思考する」ということについて、素朴経験論的に解釈する必要に駆られた。というのも、最近自分は「思考する」ことができていない。その理由は忙しすぎることにあると想像する。とはつまり、やること、より具体的に言えば、やらなければならないこと、第三者的要因で課されている課題が多すぎる。
考える、という言葉がただの考えるという行為を表すための動詞でありうるのと比べて、「思考する」という言葉はより哲学的なニュアンスを含んでいるように思われる。では考えると「思考する」という言葉がexplizitに含み持つ意味の違いはどこにあるのだろうか。もう書き留めている時間があまりないのだが、その実感的な答えは、なにか「私」の行為に関する実益的な事柄が有るかないかでひとまず区切れるだろう。
たとえば、なにか「私」ができないことがあり、それをどうすればできるようになるか「考える」のであるが、「思考する」わけではない。「思考する」とは、その実益的な事柄、なにか「私」ができるようになること、というレヴェルからtopographischに一歩引いた所に位置する、問題に関するより構造的なアプローチの仕方、つまり、それはどのように構成されているのか、ないし、それをできるようになることとはどのようなことなのか、を問うことに重きを置いていると説明しうる。一言でいえば、「思考する」ことにおいては、振る舞う「私」の問題は括弧に入れられており、「私」は多くの場合、当事者ではない。
だから、どうすれば「私」がそれをできるようになるか、という実益的な問題に困窮している際は、もちろんそれも避けて通れない問題ではあるのだが、何かを「思考する」ことはなかなか難しいのではないだろうか。もしかすると立川談志の言うとおり学問とは良くも悪くも「金持ちの暇つぶし」なのかもしれない。こういうAはBだのような、二つの事柄を単純に等号で結んでしまう暴力的な文言はあまり好ましくないのだが、おそまつ。
蛇足。こういう普段とは違うことについて考え、「思考する」きっかけを得ることができたのも今の境遇のおかげ。