まっぱじ

雑記。理性の、つまり普段の「自分」を制御している管制官としての私の意識の、スイッチをできる限りoffにした自分の姿、振る舞いをスイッチをonに戻した自分からReflexionし直すとひどく恥ずかしい。その理由は自分が統御できてないいわば別人格の私の姿を第三者に見られるのが恐いからなのだと思うのだがさておき。では海外で長く生活していると私のキャラ、というと、つねに理性的にスイッチチェンジ可能な感じがしてしまうので、私の性格、つまりスイッチonの自分そのものが素朴経験論的に変わってしまうのはなぜだろうか。
その実感的な答えはきっと、不変なものとして語られることも多い理性そのものが変わることにあるのだろう。このことから考えを派生させるに、性格を構成しているのは理論的観点からみて、おそらく無意識である以上に可変的な理性ないし自我なのではないかという気がする。後期のFreudの理論モデルを導入するならば、無意識は無時間的なものであり、いついつどこどこの時点ではこうこうといった変化時系列的に並べられるものではないはずだし、たしか。
しかしまあ、こうして構造について整理、考えているとえらく落ちつく。このことはまたある種の逃げや怯えの要素も含んでいるのだろうが、それはそれ、自分で自分のバランスをとっているのだ頭でっかちwarum nichtだろう。日本語ではReflexionを、省察という意味も反省という意味も(時間がないので差異の具体的な考察は省略)、どちらも主に「反省」というひとつの漢字であり「感じ」で表すのは経験的にしっくりくる。
人間一生糞袋ってな。