「いき」の閾

「「いき」の第三の特徴は「諦め」である。運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。「いき」は垢抜がしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟酒たる心持でなくてはならぬ。この解脱は何によって生じたのであろうか。異性間の通路として設けられている特殊な社会の存在は、恋の実現に関して幻滅の悩みを経験させる機会を与えやすい。「たまたま逢ふに切れよとは、仏姿にあり乍ら、お前は鬼か清心様」という嘆きは十六夜ひとりの嘆きではないだろう。魂を打込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ、悩みに悩みを嘗めて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくなるのである。「…」そうして「いき」のうちの「諦め」にしたがって「無関心」は、世智辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟酒として未練のない恬淡無碍の心である。「野暮は揉まれて粋となる」というのはこの謂にほかならない。あだっぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯な熱い涙のほのかな痕跡を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握し得たのである。」(45-46)

「いき」の構造 (講談社学術文庫)

「いき」の構造 (講談社学術文庫)

さてここで質問。今月号の雑誌『ダ・ヴィンチ』で「ゲゲゲvsニーチャ」が特集されている。ゲゲゲ(の鬼太郎を書いた水木しげる)とニーチェというのは直接的なつながりがないのは勿論のこと、間接的に時代的にも内容的にも(というのもニーチェが妖怪的なものを擁護するとは思えない)なかなかつながらない二人であるが、同誌は両者をネガティヴな書き方をすれば実際どうだかということはさておき【どちらもつらいときにすがることのできる格言を数多く残している】という観点で共通させている。がどうだろう、こうして「いき」(これは日本人が「かっこいい」という思う性質の代表格だろう)とはなにかやニーチェや水木の格言を自己擁護のために引用しなかば捏造して自己のモットーとすることははたして「いき」なのだろうか?
ダ・ヴィンチ 2010年 07月号 [雑誌]

ダ・ヴィンチ 2010年 07月号 [雑誌]

「諦め」の域に達するためには悩むとほぼ同じ意味で【考える】必要がある。だから悩むという行為は「いき」である、ないし「いき」になるための必要最低条件のひとつであると思うが悩んでいる自己に悲劇の自己愛的に耽溺することなく考えるとはどのようなことだろう?