記号論

ホムンクルス』『凸村戦争』『へルタースケルター』と自宅で合間合間に読み返すマンガがたまたま記号論で括れそうなもので並んだ。『ホムン』や『へルター』の物事の記号性に対する「まじめ」な身ぶりも、その記号界の外を信じる真剣さにもまいど心を撃たれるのだけれど、このたびは、『アトモスフィア』もそうだが、『凹村戦争』のもつ良くも悪くも独特のフラットさ(/軽さ)に記号論関連で思考を刺激される。「穴だらけでご都合主義で自由気ままな世界。なし崩しでユルユルなのに堅固な世界。世界はそんなふうだと思います、本当に。本当に。本当に。本当に?」(217)というのは西島のあとがきの言葉だが、くり返される世界という言葉が、これはセカイ(系)と書いた方が適切だろう、形容詞でしかないことに見られる「世界」という言葉のもつ意味論的なうすっぺらさには目をつぶり、引用の最後が「本当に?」と疑問符で終わっているのがミソ。
タイトルの『凸村戦争』からしオーソン・ウェルズの『宇宙戦争』のパロディであるように、それにしてもOrson Wellesがオーソン・ウェルズとなり凸村となる日本語の「読み(仮名)」ないしルビのもつ変態力は独特だね、多くのパロディから物語の要素が成り立っているこの漫画に対してすぐに「ポストモダン」ないしシュミラークルな記号社会の象徴などと括りたくなるのも分からないでもない。wikipediaによると実際にこの漫画(家)は岡崎京子の影響下にあるらしいし。ただ「最高に滅茶苦茶に容赦なくやる」身ぶりを見せるこの漫画の本編のあとでやたらと「まじめ」なトーンのあとがきを読むと、引用の最後の「?」から敷衍して、セカイはすべて記号だシュミラークルだといいつつもではなぜそうして「セカイはすべて記号だ」と実定的に言えてしまえること自体はシュミラークルだということにならないのかと問わずにはいられない。そうして何かをシュミラークルと定義すること自体もまたシュミラークルなのだとすれば、「シュミラークル」という言葉もそろそろ社会学的な概念として有効というよりも歴史的な「コンセプト(現象)」の仲間入りをしてもらってもいいだろう。

凹村戦争(おうそんせんそう) (Jコレクション)

凹村戦争(おうそんせんそう) (Jコレクション)