reset

来日していたイタリア人とここ数日間濃密に過ごしていたためか、ベルリンでの「私」、ここはあえて「Ich」と書くべきだろうか、が肉厚に脳内にフラッシュバックする。ということは逆にいえば今まではいつの間にかベルリンの記憶が薄れていたということを意味するのだが…。
その友人との生活から得た経験をもとに判断するに、ヨーロッパで生活する、より精確にいえば、サバイヴするために最低限必要なことは【こだわりを持つこと】と言えるのかもしれない。このこだわりを持つこと、動詞化すれば【こだわる】という言葉のなかには意味論的に少なくとも1.主体性の問題、2.反社会性の問題、集約して【意志】の問題が含まれている。うーんなんともヨーロッパ的というかサルトル的なコノテーション…。
成田空港での見送りの帰り道にあまりの疲労から上野で富士そばに入るとどうやら富士そばの社長のハウツー本が出版されてたらしい。2、3年前に大学の教授と「いま一番hotな分野はなにか?」という話をしていたときに結論としては安直に【価値観の多様性】の問題つまり「一番hotな分野はなにかとは簡単に名指しできずらくなってきている」ことに落ち着いてしまったのだが、こうして「たかが」立ち食いそばに毛が生えたぐらいの富士そば社長の本が自費出版ではなく利潤を追求しなければならない出版社を通して出版されている現状を見ると最近もっともhotな分野は【ビジネス】なのではないかという気がしなくもない。ここで英語でBusinessと表記せずに日本語で「ビジネス」と表記していることがミソ。最終的な出版部数のことを推測しても多くの人はそんじょそこらの「えらい」研究者の学術話よりも「たかが」富士そばの社長のビジネス話の方が聞きたいと感じていることが分かる。だが分からないのはなぜこのような「ビジネス」=hotな社会システム、意味論的な要素を加えれば、【ビジネスかっこいい】という心的流行が発生しているのかということである。(ポスト?)構造主義的な説明として「大きな物語の終焉」のモデルを用いるのはかまわないのだが、それでは文系学問が衰退したことの解釈にはなってもこれほどまでに「ビジネス」への関心が高まることの分析にはならない。ここですごくやめてほしいのはこうしたビジネス社会の構造を装置理論的に、つまり大衆操作の観点から説明しようとすること…。たとえば「エコはエゴである」とか…。
帰路、地元の駅についたときに突然降り出したスコールのような雨と日中の都内で40度を超していた気温のことを考えると、まるで今日の東京の気候は温暖湿潤気候ではなく熱帯のようだ。ここですぐに「地球温暖化」のワードが脳裡をよぎるがこのモデルではあまりにもきれいに説明出来過ぎててしまう。例えば、ともすれば今日の猛暑と大雨はただの偶然的な重なりだったかもしれず、この偶然を地球温暖化の一現象としてモデル化することができ、尚かつその【偶然の必然化】が大衆にかなりの説得力をもって実感されるのは、その説明モデルが「正しい」という以前にそのモデルを大多数の人が知っているということを意味し、流行っていることの例証にはなっても正しさの証明には必ずしもならない。
ここでこうした地球温暖化の説明モデル、それとともに起こっているエコロジー思想がその言葉の元祖提唱者であるErnst Haeckelの「Ökologie」(生態学)的な意味にまで回帰せず結局新たなビジネスモデルと癒着してしまうのであれば、むしろこのまま地球温暖化が促進してハリウッドのスペクタクル映画のように現代の社会システムが一度ぶっ壊れてresetしてしまった方がより「より良い社会」に近づくのではないか、より悲観的に言えば、そうするしか現行の社会システムが「より良い社会」になることはないのではないかと思わないでもない。「今の日本が良くなるためにはギリシアのように一度経営破綻するしかない」と分析していた友人の発言を思い出す。ハリウッド映画の地球滅亡系だけでなく、西島大介の『世界の終わりの魔法使い』や恋愛シュミレーションゲームの『ラブプラス』にも内蔵されている【reset】の思想。

世界の終わりの魔法使い (九龍COMICS)

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商いのコツは「儲」という字に隠れている

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ラブプラス+

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