徒党を組んで助け合う

自分の調子が良いのか悪いのかの判断はつまるところしばしば目にする以下の例、半分残っている大好きなジュースに対して【半分しか残っていない】と消極的に判断するのか【半分も残っている】と積極的に判断するのかに落ち着くように思える。
要は論理方程式を駆使してどんなにがんばっていまの自分の実情を客観的に分析しようと奮闘したところで自分で自分のことを分析する、「自分」なんて体育会めいた一人称はやめて簡略化して、【私が私のことを分析する】という行為の主語にも目的語にも「私」という言葉が出てきてしまうように、それは主観的な判断ではあっても客観的な分析ではない。その「分析」はつねに【そのつどの気分をじゅうぶんに反映している】のであり、その信憑性も「朝のニュースの血液型(ないし12星座)占い」以上のものではないだろう。つまり、【言われてみれば(思ってみれば)そんな気がしてくる】程度の。
脳科学者の茂木健一郎神戸女学院大学教授の内田樹がネット内で「日本の人事システム」を話題にしている。
茂木健一郎 クオリア日記
日本の人事システムについて - 内田樹の研究室「日本の人事システムについて」(内田樹の研究室)
両者の議論の焦点をムリクリ一言にまとめると【日本の(未来ある)学生を潰しているのは未来への「不安」から生まれる冒険的なことへの「懐疑」だ】となるだろう。こうして社会的に「栄えある未来」を手にした茂木、内田両氏のような人々が不特定多数の自分の未来を信じたい若者(多くの場合は学生)に向かってエールを贈ってくれるのはうれしいし、政治的な「政策」としても効力があるように思える。
ただ、両氏がたとえ総理大臣になったとしてもいきなり日本の「未来ある」学生が「不安」にならないような政策を打つことは不可能であると推測できるように、両氏が直接的に「不安」な学生を救ってくれる日はまずこない。だからさまざまなメディアを通して半ば情報的に救ってくれる茂木、内田両氏に【加えて】、より実践的に、肉感的に「不安」から救ってくれる存在、それが志を共にした古くは「同士」と呼ばれたであろうような【友達】の存在であり、またときに人によっては【伴侶】であると実感的に思う。
「不安」をサバイヴする実践的な方法論として【不安ネットワーク】のようなものを構想してみたならば、命名はさておき、そのときその不安ネットワークなるものは各自の不安を増幅するのだろうか、減少するのだろうか?海外にも自分と同じような境遇で悩み、がんばっている人々がいるのだと分かり、何らかの形で「フルコンタクト」ができたならばそのとき各自の不安は増幅するのだろうか、減少するのだろうか?そのネットワークにおいてまず大事なことは【信頼】であり結局、話は冒頭の問題に戻る。