文学の触覚

アート。平野啓一郎舞城王太郎などのテクストを用いたインスタレーション。タイトルの「文学の触覚」がコンセプトだが、ただテクストの文字群を書物メディア上ではなく、ビデオインスタレーションとして「アート」すれば、文学における「触覚」だ、というのはあきらかに早計だし、つまらない。文学の「新たな領域と表現の可能性」を考えるときに、すぐさま書物メディアからの脱却を図ろうと目論むこと自体がそのまま「文学」の失効を意味する。
そんなことをせずとも、そもそも「文学」は十分に触覚的だ。口承文学や詩の朗読、テクスト批評は「対話」という形式と不可分であり、書物メディアを読むことは、同時に読む身体も形成する。ちゃちに文学のテクストを変えずとも、文学を空間的にとらえればおのずと文学触覚は見えてくる。問うてほしいのはそこだった。これまで文学に触れる(現代において、多くの場合それは「読む」を意味するだろうが)ことは、無意識下でどのようなことを習慣化してきたのか?
たとえば、紙の手触り、本をもつ手の筋肉の収縮、文字群のフォントないし配列ないし不動、読む際の静かで無臭な環境、上下左右の安定した並行感覚、光彩。ひとつのテクストに作者が一人と考えられていること。紙であること。
少なからずメディア論的な観点だが、「文学の触覚」という明確な方針のもと展示するならば、こんなうんこコラボせずとも、もっとおもしろい問いがあったはずだ。
またこうも思う。「文学」という古風な名称がもはや書物メディアの外で生息することができるのか?とりあえずのところ、この問いは反語疑問だ。