我思うとき思えば思えども思え

私にとって、「思想」はとても「リアル」だ。それはもちろん、「思想」が真理を語っているからということではない。「思想」が「リアル」だと感じるのは、むしろそれが無・意味だからだ。ボルツに『意味に餓える社会』(Sinngesellschaft)という本があるが、感じる事実はその逆で、あまりにも大気は意味にあふれているからこそ「思想」のもつ(無意味さではなく)無・意味さが「リアル」なのだ。この「リアル」という語が気に障るならば、ヤジキタ的に「リヤル」とでも言えばいいだろうか。
では、現代において、私はなぜ「思想」は無・意味だと感じるのだろうか。粗末にいえば、「思想」の持つ時間にある。「思想」が書かれた時間、「思想」が読まれた時間。内容に意味がないにも関わらず、「思想」を書くことも読むこともどちらもかなりの時間を浪費する。難解だから?抽象的だから?分厚いから?理由はどうでもいい。考えてもしょうがないのに考えてしまった、読んでもしょうがないのに読んでしまった、この「思想」の持つ敷居としての時間。ないし、その奥に脈打つ生の余剰。これが、かつては「自由」と呼ばれえたかもしれないが、今ではとても無・意味で、ノイジーだからこそ、そこに「リアル」を感じるのだ。
ベンヤミンドゥルーズ、クラカウアー、ニーチェなどの思想的背景を踏まえて、この漠とした「リアル」を漠としたままこうテーゼ化することができるかもしれない。
メディアなどの発達によりというか原因はどうでもいいのだが、世界がどれも意味という手あかのついた情報と同義語になってしまったような感じを受ける現在だからこそ、デジャヴらない、未だ見たことのないような感じを受ける「未生」のものごとこそがかえって「リアル」なのだ。

意味に餓える社会

意味に餓える社会