シュルレアリスムと写真 痙攣する美
知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展
紫禁城写真展

巡る写美。
シュルレアリスム展:フーコーによれば、統治とはそのまま配置を意味するほど、配置とは重要なものらしいが、この展覧会の作品の配置はいったいなにがしたいのかわかめ。なぜシュルレアリスムの写真がアジェではじまり、ブロースフェルトの植物写真+再度アジェで終わるのか?わかめだし、また外見上の「シュルレアリスムっぽさ」だけで集められたとしか思えない、時代、主題、地理的にごたまぜな構成もわかめ(これがキュレーションにおけるモンタージュだ、とでもいうのだろうか?)。愛するベンヤミンをてきとーに引用されたり、抜群に劣悪。
ジャコメッリ展:技巧的な、いわば「アートっぽい」写真はあまり趣味ではないのだが、この人の写真からなにより強烈に感じるのが、「表現への意志」とでもいったような渇望で。アラーキーの写真に見えるような撮る対象への愛情はなく、対象をいかにモノクロの「コンポジション」に創りかえるかにしか興味のない、狂気じみた自己顕示欲は、「撮る」というよりも「喰う」という言葉が似合う。つまらなくない。
紫禁城展:小川一真の紫禁城写真は後半、飽きてしまったのだが、導入部の1900年の一真紫禁城写真とそれを現代で忠実に再現した候元超の紫禁城写真を見比べる試みはおもしろい。ふたつの写真を見比べることで浮かび上がるのは、紫禁城はけっして静止物ではなく、生き物であり、どの一瞬として同じ紫禁城は存在せず、ましてや100年前の一真が写し出した紫禁城は、二度とこの目に、この手に蘇ることはないのだという、観光地化された「王宮」に対する候元超の悲哀に満ちたまなざしだ。
浮腫む足。