文学研究をかってに救う説得力あるひとつのいいわけ

文学研究のジャンルに寄生しているわたしはかってに語学研究に罪悪感を感じていた。というのも、どちらもなにか永遠の「真理」への探求はもはや前提としていないながらも、それでも語学研究は科学的な方法論をとり、なお客観性を心がけようとしているのに対し、文学研究は「解釈」という名のもとのただの主観性の無法地帯ではないか?と、「研究」という冠を付す以上この開きなおり似非エッセーぶりはおかしいのではないか?と、疑問に思わずにはいられなかったからだ。
たしかに、もはや「真理」を前提とできないにも関わらず、それでも科学的根拠をふりかざし「真理っぽさ」を臭わせてくる語学研究の方法論の方がよりたちが悪いということができるかもしれない。でも、それは真摯じゃないというか、あげ足とりというか、なんか文学研究のその自己中わりきり具合がむしろルサンチマン的というか……
が、そこはベンヤミン。こうした心のもやもやを一気に雲散霧消するカッコイイいいわけを教えてくれた。時間の都合上、孫引きで以下。

蒐集というアートにおいて決定的なことは、蒐集の対象となる事物から、当初もっていたあらゆる機能を奪いさり、すでに蒐集された他の事物とできるかがり密接な関係を結びようにすることである。この関係は、有用性とはまっこうから対立するものであり、完全性という注目すべきカテゴリーに従っている。
               〔鹿島茂「『パサージュ論』熟読玩味」44頁〕

これを鹿島氏の読みに沿いつつ、研究の方法論的に解釈すると次のように言いかえることができる。
つまり、語学研究が客観性を重んじるのは、客観性ではなくなにより対象を第一に考えているからであり、こうした「対象第一主義」(文学でいえば「作品第一主義」)の観点からいえば、文学研究とは、上記のベンヤミンの作品の「完全性」のように、多様な解釈を示すことで、作品に内在する読解の可能性をすべて明らかにするという作品の完全性に対して忠実であるのだと。要は、十羽一唐揚げにいえば、ただ「対象第一主義」から派生する両者のミニマムかマキシマムかのべクトルの違いなのだと。
うん。