夏季五輪限定弁当: サマランチ

ゲーテの形態論に関する文庫を読み流し「萼」(がく)の字を辞書で引いていると「台」(うてな)という言葉に巡りあう。このごろ母音が「う」の文字になにか幼児性への父性愛めいた気持ちのもやもやを感じていたがこの「うてな」という言葉のもつ響きはまたLolitaで萌える。
猫のマンチカンが他の一般的な猫の種類と比べて人気をあつめ「かわいい」として思われているのは表象のレベルでなによりまず手足が短いからだと考えられる。それと比べて人間は手足が短いことが「かわいい」としては表象されることはあまり多くない。キモの接頭語をつけ「キモ+かわいい」ならまだしも。そのことはたとえばファッション雑誌やポスター、TVCMなど広告系全般において手足の長いモデル体型がいまだに闊歩していることを考えれば一目瞭然だ。ちなみにこのモデル体型というやつ、フォルムとしてすでに動物よりも植物に近づいてきてはいないだろうか。擬音語で形容するなら絶対に「にゅ」だ。
ということはたとえば上記のゲーテの形態論でも問題になっている昔からの動物と人間との境界線という問題。ここでは表象のレベルで、そのひとつの区切りとして手足の長短が挙げられるのかもしれない。というのも、東浩紀の『動ポモ』いわく動物化が進み、「手足が短い」として表象される日本人は、あの緑と白でできた出口表示のピクトグラムの国際規格を定める際にもたしか西洋と日本間でそのピクトグラムにおける手足の長短に関してもめたのだ。

ゲーテ形態学論集・植物篇 (ちくま学芸文庫)

ゲーテ形態学論集・植物篇 (ちくま学芸文庫)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

ピクトグラムのおはなし (おはなし科学・技術シリーズ)

ピクトグラムのおはなし (おはなし科学・技術シリーズ)

像よ

だいたい最初の一撃はタイガージャンプ。生きていることはコミュニケーション、文化人類学的な用語のニュアンスに落とし込むならば「贈与」だとしてみる。ドイツ映画の『BIS ZUM ELLENBOGEN』(2007)で描かれていたが、たとえ死体でも初期状態では腸の中に残っているガスが何かの刺激に応じて「おえええええ」と声のようなものを吐き出すように、生きていることは自分の中にある何かを外へと吐き出すこと、たとえそれが排泄物系であろうと、シグナル系であろうと、種子系であろうと、例は限りない。飽くことなくもうもうと生え続ける髭や髪、産毛などの毛髪類もそうした外への身体的な欲望の現われであるだろう。生はつねに新陳代謝を繰り返す。生もまた差異と反復の運動である。ならば、グラビアアイドルの2次元ポスターを生のデフォルトとするような、静止し閉じた鏡状の生のモデルではなく、まさに贈与交換―交感の運動に、コミュニケーションという領土なき間(あいだ)に生のモデルと、さらには他者の芽生を見よう。
とにかく「贈与」の概念を考えるためにもMarcel Maussの『贈与論』と小田亮の『構造主義のパラドクス』は必読だろう。

贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

構造主義のパラドクス―野生の形而上学のために

構造主義のパラドクス―野生の形而上学のために

ドイツ系のアーティストJoseph Beuysが標語として「どんな人も芸術家」(Jeder Mensch ist ein Künstler)と言ったように、人間である以上すべての人はなんらかの創造行為(Soziale Plastik)に携わっているとすることには賛成する。だがそこで「芸術家」という特定の職業名を、しかもBeuys自身が属する職業名を使ってしまってはその「やさしい」標語にイデオロギー的な別の冷たい意味の磁場が入り込んでしまう。
単純なこと。アリストテレスが『形而上学』でまず人間の始源として設定したように、ギリシア古代の昔から「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」とするならば、そこから敷衍して、「ホモ・コムニカンス」(今村仁司)。人はコミュニケーションする。

現前するおもいっきりの非現前を、やさしさを。

私はいつまでもむなしく自問するだろう、この映画を評価しようとする誰にとっても、次の問いはよい問いたりうるのではないかと。それは、この映画は、〈役者〉が演じる主体(要するに「私」)をまったく見たことがないだけでなく、彼の著作をまったく何も読んだことがなく、彼のことを聞いたこともなく、彼の名に出会ったことさえないような者にとってどのように見られうるか? これこそは正しい基準ではないだろうか? そうであるとも言えるし、そうでないとも言える(このような調査はしなくてはならないだろう。しかし、正しい基準がないことは、正当な批評的審級がないことは、前もってわかっている。そして、映画祭の審査員の存在は、事の本質に何の変更も加えない、審査員の権威とはつねに簒奪されたものであり、分析可能なものである。ある基準がなくてはならないとしても、それはあらかじめのものではないだろう。映画がそれを発明し、みずからそれを産出し、正当化しなくてはならないはずである。映画は基準を引き起こさなくてはならないはずである、みずからの法のように、みずからの観客のように、そして、毎回、一人一人の観客にとっての、ある独異な法を。視聴者の尺度が気になる人々には、これは最良の保証ではないだろう。しかしそれは、おそらく、最良の賭けではあるだろう。そして、いずれにせよ、唯一の将来である)。(122-123)

言葉を撮る―デリダ/映画/自伝

言葉を撮る―デリダ/映画/自伝

いつか誰かが人は男だといった。それに対していつか誰かが否、人は男ではなく女だといった。それらに対していつか誰かが否否、人は男であり女だといった。では植物である私はどうしたらいいだろう?
異システム間の移動=コミュニケーションはつねに差異のシステムでありえ、つまり、差異と反復を生み続けるならば、そうして止揚がつねに古い差異の痕跡を隠蔽し続けるならば、もう否定することはやめて、その皇帝を脱構築してやろう。
でも、たとえ「一人の盲者に関する複数の手紙=文字」といったところで、この声は結局、誰に届く? ならば、どうしても現前の対話の方が、フィードバックとインプロビゼーションのKommunikationの方が間主観的なコミュニケーションだと言いたくもなる。
文字はまた暗号だから。でもそれはそれで余白=思考を生まない祝祭めいた少しナチの香り。

暫定的に、要はきっと「正義」や「理想」などの意味論的なこととは関係なく、自分になにならできるのか?そして、誰に一番に届けたいのか?
歴史に? よくできた話だね。その痕跡は泣けてくるよ。
少なくとも、主体はない、などと大ボラ吹いてその「書く」という行為そのものを全く顧みない「ポストモダン」的言説は絶対に認めない。
ニーチェは晩年なぜあんなにも舌っ足らずだったのだろう。病を思考すること=思考を病ませること、病の思考、思考の病。

カタツムリはジャンプできない

安部公房箱男』読中。もう肉汁滴るメディア論かつ身体論。となるとガチの哲学、とはつまり「なにかについてだけ」その公式をえんえんと述べているような哲学といわれる記述法の存在意義、とまで言わなくともおもしろさは如何に?この問題域は哲学をするないし書く側にあるのではなくおそらく読む側にある。つまりいまさら神についてだの実存についてだの観念論だのについて書いてもそれはそれで問題は哲学もまたいわば「物語」のひとつの形式だということを読み手側がしっかりと認識することにある。もちろん哲学と小説では形式が違うのだけど。形式が違えばもちろん内容もそれに応じて異なるのだけど。いわば哲学だって小説とは違うといえども「そういってみるテスト」にかわりはないのだと。だから問うて考えてみておもしろいのはなにをではなくなんでそんなふうに「そういった」のかだろう。その「そういった」は正しいのかではなく。

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

たとえば岩波文庫によればツァラトゥストラはこう言ったらしい。どう言ったの?ではなく、なんでそう言ったの?と考えてみる、テスト。しかしとなると問題域はその哲学的な証明の整合性批判ではなく実践的に比喩解釈ないしレトリック解釈の問題になってしまうのかな?霧、霧、霧。

嘔吐、ドローイング、げー、でる

自分は思考に関わる問題系に取り組むことが大好きなんだなということに気づく。今更ながら。例えばびとげんの『論考』やれゔぃすとろーすの『野考』と聞くと自然と「萌え」てくる。おそらくこの場合の漢字はそのmoeでいい。
でもたとえば数学者のゲーデル不完全性定理によれば、「理性には限界がある」し、当たり前!そうした「理性には限界がある」という当たり前の実感を証明するためにはものすごく複雑な理論がいる。いわば、思考に関わる問題系はともすればすぐに抽象的で難解な理論の無限ループにはまってしまう。気をつけよう!インテリ源さん。この問題はひとえに思考に関するテクストの「書記法」に関わっているように思える。たとえば内田樹使う「鳥瞰的視座へのテイク・オフ」の動的で視覚的な思考の表現法はとても実感の観点を大切に描かれている。

想像的に鳥になってみれば分かるはずですが、地表から高く飛び上がれば飛び上がるほど、地上にいる「私」についての情報は増えます。「私」が空間的な布置のどこに位置を占めていて、どのような機能を果たしているのは、何を生み出し、何を破壊し、何を育み、何を損なっているのか……。想像的に確保された「私」からの距離、それが自己認識の正確さを保証します。

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

なので、思考の問題系に文化史的ないし身体論的な手触りを!
熱。発熱。まさかー。大量虐殺。