図図しい
ドイツ関係と梯子飲みで楽しい議論。新宿で。同じ「人」という類なのになぜこうも人それぞれめいめいの考え形を持てるのだろうかと神秘的にさえ思う。こうして他人の考え形といういわば脳内の写し絵めいたものをコミュニケーションにおいて感知することができるのはひとえに「ことば」というメディアのお陰であり、いつぞやの祖先の「ことば」の発明には心から感謝したい。
なにかああしてとにかく議論になる人たちのことを考えていると、18世紀後半に起こったフランスの生き型の革命に対して、『Kritik der reinen Vernunft』(純粋理性批判)のなかで「考え型の革命」(Revolution der Denkart)を唱えたImmanuel Kant(カント)に例えば代表される「ドイツ的概念性」めいたものが共通してあるように思えてならない。
どうせ「不毛地帯」ならば議論の花でも咲かせようか。
徒党を組んで助け合う
自分の調子が良いのか悪いのかの判断はつまるところしばしば目にする以下の例、半分残っている大好きなジュースに対して【半分しか残っていない】と消極的に判断するのか【半分も残っている】と積極的に判断するのかに落ち着くように思える。
要は論理方程式を駆使してどんなにがんばっていまの自分の実情を客観的に分析しようと奮闘したところで自分で自分のことを分析する、「自分」なんて体育会めいた一人称はやめて簡略化して、【私が私のことを分析する】という行為の主語にも目的語にも「私」という言葉が出てきてしまうように、それは主観的な判断ではあっても客観的な分析ではない。その「分析」はつねに【そのつどの気分をじゅうぶんに反映している】のであり、その信憑性も「朝のニュースの血液型(ないし12星座)占い」以上のものではないだろう。つまり、【言われてみれば(思ってみれば)そんな気がしてくる】程度の。
脳科学者の茂木健一郎と神戸女学院大学教授の内田樹がネット内で「日本の人事システム」を話題にしている。
茂木健一郎 クオリア日記
日本の人事システムについて - 内田樹の研究室「日本の人事システムについて」(内田樹の研究室)
両者の議論の焦点をムリクリ一言にまとめると【日本の(未来ある)学生を潰しているのは未来への「不安」から生まれる冒険的なことへの「懐疑」だ】となるだろう。こうして社会的に「栄えある未来」を手にした茂木、内田両氏のような人々が不特定多数の自分の未来を信じたい若者(多くの場合は学生)に向かってエールを贈ってくれるのはうれしいし、政治的な「政策」としても効力があるように思える。
ただ、両氏がたとえ総理大臣になったとしてもいきなり日本の「未来ある」学生が「不安」にならないような政策を打つことは不可能であると推測できるように、両氏が直接的に「不安」な学生を救ってくれる日はまずこない。だからさまざまなメディアを通して半ば情報的に救ってくれる茂木、内田両氏に【加えて】、より実践的に、肉感的に「不安」から救ってくれる存在、それが志を共にした古くは「同士」と呼ばれたであろうような【友達】の存在であり、またときに人によっては【伴侶】であると実感的に思う。
「不安」をサバイヴする実践的な方法論として【不安ネットワーク】のようなものを構想してみたならば、命名はさておき、そのときその不安ネットワークなるものは各自の不安を増幅するのだろうか、減少するのだろうか?海外にも自分と同じような境遇で悩み、がんばっている人々がいるのだと分かり、何らかの形で「フルコンタクト」ができたならばそのとき各自の不安は増幅するのだろうか、減少するのだろうか?そのネットワークにおいてまず大事なことは【信頼】であり結局、話は冒頭の問題に戻る。
reset
来日していたイタリア人とここ数日間濃密に過ごしていたためか、ベルリンでの「私」、ここはあえて「Ich」と書くべきだろうか、が肉厚に脳内にフラッシュバックする。ということは逆にいえば今まではいつの間にかベルリンの記憶が薄れていたということを意味するのだが…。
その友人との生活から得た経験をもとに判断するに、ヨーロッパで生活する、より精確にいえば、サバイヴするために最低限必要なことは【こだわりを持つこと】と言えるのかもしれない。このこだわりを持つこと、動詞化すれば【こだわる】という言葉のなかには意味論的に少なくとも1.主体性の問題、2.反社会性の問題、集約して【意志】の問題が含まれている。うーんなんともヨーロッパ的というかサルトル的なコノテーション…。
成田空港での見送りの帰り道にあまりの疲労から上野で富士そばに入るとどうやら富士そばの社長のハウツー本が出版されてたらしい。2、3年前に大学の教授と「いま一番hotな分野はなにか?」という話をしていたときに結論としては安直に【価値観の多様性】の問題つまり「一番hotな分野はなにかとは簡単に名指しできずらくなってきている」ことに落ち着いてしまったのだが、こうして「たかが」立ち食いそばに毛が生えたぐらいの富士そば社長の本が自費出版ではなく利潤を追求しなければならない出版社を通して出版されている現状を見ると最近もっともhotな分野は【ビジネス】なのではないかという気がしなくもない。ここで英語でBusinessと表記せずに日本語で「ビジネス」と表記していることがミソ。最終的な出版部数のことを推測しても多くの人はそんじょそこらの「えらい」研究者の学術話よりも「たかが」富士そばの社長のビジネス話の方が聞きたいと感じていることが分かる。だが分からないのはなぜこのような「ビジネス」=hotな社会システム、意味論的な要素を加えれば、【ビジネスかっこいい】という心的流行が発生しているのかということである。(ポスト?)構造主義的な説明として「大きな物語の終焉」のモデルを用いるのはかまわないのだが、それでは文系学問が衰退したことの解釈にはなってもこれほどまでに「ビジネス」への関心が高まることの分析にはならない。ここですごくやめてほしいのはこうしたビジネス社会の構造を装置理論的に、つまり大衆操作の観点から説明しようとすること…。たとえば「エコはエゴである」とか…。
帰路、地元の駅についたときに突然降り出したスコールのような雨と日中の都内で40度を超していた気温のことを考えると、まるで今日の東京の気候は温暖湿潤気候ではなく熱帯のようだ。ここですぐに「地球温暖化」のワードが脳裡をよぎるがこのモデルではあまりにもきれいに説明出来過ぎててしまう。例えば、ともすれば今日の猛暑と大雨はただの偶然的な重なりだったかもしれず、この偶然を地球温暖化の一現象としてモデル化することができ、尚かつその【偶然の必然化】が大衆にかなりの説得力をもって実感されるのは、その説明モデルが「正しい」という以前にそのモデルを大多数の人が知っているということを意味し、流行っていることの例証にはなっても正しさの証明には必ずしもならない。
ここでこうした地球温暖化の説明モデル、それとともに起こっているエコロジー思想がその言葉の元祖提唱者であるErnst Haeckelの「Ökologie」(生態学)的な意味にまで回帰せず結局新たなビジネスモデルと癒着してしまうのであれば、むしろこのまま地球温暖化が促進してハリウッドのスペクタクル映画のように現代の社会システムが一度ぶっ壊れてresetしてしまった方がより「より良い社会」に近づくのではないか、より悲観的に言えば、そうするしか現行の社会システムが「より良い社会」になることはないのではないかと思わないでもない。「今の日本が良くなるためにはギリシアのように一度経営破綻するしかない」と分析していた友人の発言を思い出す。ハリウッド映画の地球滅亡系だけでなく、西島大介の『世界の終わりの魔法使い』や恋愛シュミレーションゲームの『ラブプラス』にも内蔵されている【reset】の思想。
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記号論
『ホムンクルス』『凸村戦争』『へルタースケルター』と自宅で合間合間に読み返すマンガがたまたま記号論で括れそうなもので並んだ。『ホムン』や『へルター』の物事の記号性に対する「まじめ」な身ぶりも、その記号界の外を信じる真剣さにもまいど心を撃たれるのだけれど、このたびは、『アトモスフィア』もそうだが、『凹村戦争』のもつ良くも悪くも独特のフラットさ(/軽さ)に記号論関連で思考を刺激される。「穴だらけでご都合主義で自由気ままな世界。なし崩しでユルユルなのに堅固な世界。世界はそんなふうだと思います、本当に。本当に。本当に。本当に?」(217)というのは西島のあとがきの言葉だが、くり返される世界という言葉が、これはセカイ(系)と書いた方が適切だろう、形容詞でしかないことに見られる「世界」という言葉のもつ意味論的なうすっぺらさには目をつぶり、引用の最後が「本当に?」と疑問符で終わっているのがミソ。
タイトルの『凸村戦争』からしてオーソン・ウェルズの『宇宙戦争』のパロディであるように、それにしてもOrson Wellesがオーソン・ウェルズとなり凸村となる日本語の「読み(仮名)」ないしルビのもつ変態力は独特だね、多くのパロディから物語の要素が成り立っているこの漫画に対してすぐに「ポストモダン」ないしシュミラークルな記号社会の象徴などと括りたくなるのも分からないでもない。wikipediaによると実際にこの漫画(家)は岡崎京子の影響下にあるらしいし。ただ「最高に滅茶苦茶に容赦なくやる」身ぶりを見せるこの漫画の本編のあとでやたらと「まじめ」なトーンのあとがきを読むと、引用の最後の「?」から敷衍して、セカイはすべて記号だシュミラークルだといいつつもではなぜそうして「セカイはすべて記号だ」と実定的に言えてしまえること自体はシュミラークルだということにならないのかと問わずにはいられない。そうして何かをシュミラークルと定義すること自体もまたシュミラークルなのだとすれば、「シュミラークル」という言葉もそろそろ社会学的な概念として有効というよりも歴史的な「コンセプト(現象)」の仲間入りをしてもらってもいいだろう。
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ぐうの音も鳴らない
時間的にも身体的にもひさびさのoff。ソファの上で山本英夫の『ホムンクルス』を読んでいると、つけっぱなしにしてあったラジオから若いリスナーの女の子が「リエちゃんのビキニパンツがちょ〜光の速さで波に流されて(笑)」、「リエちゃんのビキニパンツがちょ〜光の速さで波に流されて(笑)」と繰り返し連呼しているのが聞こえてくる。波の速度の問題を光の比喩で語ってしまう言語センスの無粋さ自体はどうでもいいのだけど、きっと本人はその語彙の無粋さに全く気付かず、言ってる側から自分で思い出し笑いしつつ無邪気に「リエちゃんのビキニパンツがちょ〜光の速さで波に流されて(笑)」と言っているのだろうなと思うと、ブリトラの『青のり』で歌われていた、前歯に青のりがついていることに気付かずさわやかに微笑む彼女のことを思い出した。「君が笑顔になればなるほど 君の魅力がなくなってく」。
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「いき」の閾
「「いき」の第三の特徴は「諦め」である。運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。「いき」は垢抜がしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟酒たる心持でなくてはならぬ。この解脱は何によって生じたのであろうか。異性間の通路として設けられている特殊な社会の存在は、恋の実現に関して幻滅の悩みを経験させる機会を与えやすい。「たまたま逢ふに切れよとは、仏姿にあり乍ら、お前は鬼か清心様」という嘆きは十六夜ひとりの嘆きではないだろう。魂を打込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ、悩みに悩みを嘗めて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくなるのである。「…」そうして「いき」のうちの「諦め」にしたがって「無関心」は、世智辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟酒として未練のない恬淡無碍の心である。「野暮は揉まれて粋となる」というのはこの謂にほかならない。あだっぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯な熱い涙のほのかな痕跡を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握し得たのである。」(45-46)
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いぞらちおん
心の安定性に日々が入ったからだろうか、ネットで石田徹也の絵画を閲覧していたからだろうか、両方ともといえるしどちらも違うともいえるが、平穏な「日常ごっこ」の幻想性が露呈し、想像力がえらく空い。
「研究」のためパソコンを使いタイプしている最中に卓上ディスプレイに蛾が止まったものだからおもわずマウスを動かしカーソルで払おうとすると、カーソルは蛾の下を当たり前に空振りするばかりで蛾一匹払うことができない。リアルとヴァーチャルの境界線というボードリヤール的な問いかけはおいておくとしても、パソコン内での行為とは、「深い」の対語としてではなく、なんと「フラット」なのだろう。
要は強くあれということ。自分にとって安定や継続性などナルシシズムと現実逃避が作り出した蜃気楼に過ぎないということ。差異による社会的な価値システムから抜け出る強い意志をもてということ。寄生虫なのだということ。
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